リレー物語 Advent Calendar 2016

これはAdvent Calendar 2016にて行っているリレー小説の断片です.

     第四章 遷急転


 母親の朝食を支度する音で目が覚める。
昨日はあれから一度も目が覚めなかったらしい。
この時期は掛布団がなかなか身体から降りてくれないため、長時間かけて構築された心地よい空間で睡眠の余韻を味わう。窓の方を見るとほんのり明るみ始めている空が見えた。だいたい午前六時といったところであろうか。
僕は騒ぎ立てる目覚まし時計によって夢から引き剥がされるのが気に食わないため、自然と目が覚めるのを待つようにしているのだ。もうかれこれ五年以上こんな起床を繰り返しているので、身体に習慣が染み付いてしまったらしく毎日決まった時間に目が覚めるようになってしまった。
脱力し切った身体にぐっと力を込めて、上半身を勢いよく持ち上げる。尾骨から頚骨にかけてぽきぽきと小気味の良い音が鳴り響き、筋繊維がぴんと引き伸ばされるのを感じる。
「よし、そろそろ僕も起きるとしよう」
心の中でそう呟いたところで、僕は身体に纒わり付く不快感に気が付いた。昨晩はお風呂に入らず寝入ってしまったため、汗で身体がベタベタしているらしい。ましてや昨日はあちらこちらを駆けずり回ったのである。この仕打ちは当然のことだろう。
僕はまず母に朝の挨拶をし、その足でシャワーを浴びることにした。
今の母の様子を見るに、やはり昨日の学校でのことはまだ知らないのだろう。
脱衣場でくたびれた衣服を脱ぎ捨てて風呂場に入り、赤い方のつまみを大きく回す。
数秒間待ち、水が暖まったところでシャワーヘッドを自分に向けると身体の表面がじわじわと熱くなるのを感じた。身体中からベトベトしたものがいっせいに流れていくのが分かった。
昨日の出来事もこのベトベトと一緒に全て流れてしまえばいいのに。
やるせない気持ちを振り払うようにいつもより幾分か時間をかけて身体を洗った。
気のせいか今日はやけに水捌けが悪く、入念に立てた泡が排水口の上に残ってしまった。


    ●   ●


 いつも通りの身支度を機械のようにこなし、僕は今日も学校へ向かった。
昨日の出来事があったため、いっそ休んでしまおうかと思ったが、今までまじめに学校生活を送ってきた自分がそれを許してくれなかったのである。高校までの道のりは歩いて約三十分。僕は自転車にも乗らず、とぼとぼと歩いて向かう。寒い時期に自転車で登校すると、指先がきりきりと凍てついて一時間目の授業をまともに受けられなくなるからである。また、こうしてポケットに手を突っ込み、考え事をしながら歩く時間が好きだというのもある。
「あっ……」
ここで初めて自分が鞄を持っていないことに気が付いた。昨日学校に忘れてきてしまったのであった。
まあ、昨日の午前の授業ではこれといった宿題も出ていなかったし、何とかなるだろう。
そんなことを考えながら見慣れた道を歩く。自分の中ではもう半分以上進んだと思っていたのに、周りを見渡すとまだ三分の一程度であった。
あれ、おかしいな。今日の通学路がいつもより長く感じるのは昨日のダッシュのせいか?
それとも…
僕はここで考えるのを止め、嫌な考えをその場に置いていくかのようにして歩みを速めた。ただでさえ昨日の早退のことがあるのに、この上遅刻までしてしまったら何を言われるか分からない。それだけは避けなければ。
それからの通学路は流れるように過ぎ去って行き、気が付けばもう校門の辺りにいた。何とかいつも通りの時間に間に合ったらしい。これで遅刻は回避できるだろうと思い、一抹の安心感に浸っていると突然後ろから声を掛けられた。
「よう、戸村!元気か?」
どうやら同じクラスの沢木らしい。
「お前昨日はどうしたよ?午後の授業いなかったじゃねーか。階段を全速力で駆け降りる戸村を見たってやつもいたしよ」
「別に、ちょっと急な腹痛に見舞われただけだよ。」
「はあ?なんだそれ。まあ何にせよ、いつも涼しい顔してるお前の必死な姿、一度拝んでおきたかったぜ」
沢木はにへらと意地の悪そうな笑みを見せ、僕の方に腕を掛けてくる。
「それともう一つ聞いておきたいことがある」
沢木が性に合わない真面目な様子で僕に顔を近づけてきた。まさか昨日の事件がもう出回っているのか?じわりと嫌な汗が背筋を伝う。
「お前昨日特別棟でみのりちゃんとひっそり会ってたらしいじゃねーか。学校随一の美人教師として有名なみのりちゃんとどうやってお近づきになったんだよ!」
「何だ、そんなことか。」
どうやら僕の勘は外れたらしい。
「そんなことじゃねーよ!お前!抜け駆けしたら許さねーからな!」
「昼休みに特別棟のトイレに行こうと思ったら、たまたま階段を下りてくる西口先生と会ったんだよ。ほら、特別棟って昼間は誰も来ないから落ち着いてできるだろ」
「怪しいな。お前が特別棟に行く理由はそれでいいとしても、どうしてみのりちゃんが特別棟にいるんだよ。」
「隠れてタバコでも吸ってたんじゃないの?話してるとき少しタバコ臭かったからさ。たぶん若くて美人でみんなに人気な先生だから、喫煙所で堂々と吸えなかったんでしょ。イメージとか崩れちゃうし」
「なあに~!あのみのりちゃんがタバコ!?お前それは本当なのか?」
あ、これは隠しておいた方が良かったかもしれない.西口先生にはいつもお世話になっているので、恩を仇で返すようで少し申し訳ない気分になった。
「でも沢木。それあんまり人には言わない方がいいよ。変な噂が広まったら西口先生可哀そうだろ?」
「確かにな!でもこれは今年一番の驚きだぜ。今年ももう終わるけどさ。」
これで多少はフォローできただろう。いい機会だし、僕が昨日いなかった午後の学校の様子を少しでも沢木から聞いておくことにしよう。
「そういえば沢木。昨日僕がいなかった間に学校で何かあったか?」
僕達は自分のクラスに向かいながら話を続ける。
「おお、あったぜ!」
「!」
「五時間目の古典の授業で、みのりちゃんがすっげえエロい声上げたんだよ。あれは堪らなかったぜ」
「お前また西口先生の話かよ。西口先生は既婚者だぞ。もう諦めなって」
ちょっと聞いてみたかったなと思ってしまった自分が恥ずかしかった。
「たとえ負け戦であろうと、俺は絶対に背を見せないんだ!」
恰好が良いように聞こえるが、人妻にアプローチしようとしている奴が言う台詞ではないと思う。
「ああ、あとお前と同じく午後の授業から佐伯がいなかったな。あいつはいつも元気溌剌ってイメージなのに、この寒さでとうとうぶっ倒れたのか?」
「……」

 キーンコーンカーンコーン

「あ、HR(ホームルーム)始まるからそろそろ自分の席に戻るわ。またな!」
不自然に空いてしまった間を都合よく朝のチャイムが補完してくれた。
別れを告げる沢木に対して、僕は何も言うことができなかった。


    ●   ●


 それからというもの、何の滞りもなく時間は過ぎて行った。朝のHRで担任の先生から何か言われるかと思ったが、驚くことに話題に上がることすらなかった。仲の良い友達には何度か茶化されたが、しかしその程度である。
昼休みの時間に何気なく部室棟の辺りや特別棟も散歩してみたが、今までと変わらない風景がそこにあるだけだった。放火魔は現場に戻るという心理学的行動を体現してしまったような気がして少し気分が悪かったが、しかし何もないに越したことはない。僕は昨日からもう何度目か分からない安堵の念を抱き、特別棟のトイレで一人の時間を満喫した後、今日はちゃんと午後の授業の向かったのであった。


    ●   ●


とうとう何もないまま午後の授業も終わり、帰りのHRの時間となった。この調子でいけば明日からはいつも通りの生活を送れるかもしれない。時間が全てを解決してくれるかもしれない。そんな楽観的なことを考えていると副担任の西口先生が教室に入ってきた。
「それでは帰りのHRを始めます。みんな席に着いて」
騒然としていた教室がものの数秒で静寂に変わる。
「まずは配布物のお知らせから。期末テストの日程が決まったので、日程表とテスト範囲を配ります」
「「えー」」
先ほどの静寂が嘘であったかのように教室内がまたざわつき始めた。
「みのりちゃん、古典の範囲広過ぎないですかあ?」
沢木は相も変わらず西口先生にちょっかいを掛けているようであった。
「はいみんな静かに!そして猫田さん、あなた今日欠席してる佐伯さんと幼馴染よね?帰り道のついででいいから佐伯さんに配布物を届けてくれないかしら」
「は、はい…。分かりました。」
忘れていた気味の悪い現実に一気に引き戻された気がした。わざとずらしていた目の焦点を無理やり合わせられたような感覚だった。
「それから戸村くん、HRが終わったら少し職員室まで来てちょうだい」
朝からゆっくりと登ってきた平穏への道のりを一気に転げ落ちた気分であった。
身体中からベトベトしたものがいっせいに流れ出て来るのが分かった。
転げ落ちた山の麓から見た平穏はひどく遠く霞んでいるように見えた。




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